作成者別アーカイブ: wistaria42335

これも孤独死?

孤独死という言葉には、明確な法的定義がないため、警察による死因統計上は変死として扱われている。したがって現在全国規模の孤独死の統計はない。一般的に「一人暮らしをしていて、誰にも看取られずに亡くなった場合」(東京新聞)、「誰にも看取られず、死亡すること。特に、一人暮らしの高齢者が自室内で死亡し、死後しばらくしてから遺体が発見されるような場合についていう」(三省堂・スーパー大辞林)と解釈されていることが多い。

孤独死の類似語に「孤立死」「独居死」「無縁死」「行旅死亡人」等がある。

『社会から「孤立」した結果、死後長期間放置されるような「孤立死」』 『一人暮らしではあっても肉親や社会との交流のある人が、心臓発作などによって誰にも看取られずに亡くなる「独居死」』 『一人孤独に亡くなり、引き取り手のない「無縁死」』 がそれである。一方、『住所、居所、もしくは氏名が知れず、かつ遺体の引き取り者なき死亡人は、行旅病人および行旅死亡人取扱法で「行旅死亡人」と規定されている』yjimageLWT1SK64

新年・未年の松飾りがとれて間もなく、おフジさんが亡くなった。90歳であった。おフジさんは数年前に連れ合いに先立たれてしまい、三人の息子はそれぞれ独立しているため独り暮らしであった。長男は近隣市に住んでいるものの、おフジさんとは普段から交流はほとんど皆無であった。次男は東京に住んでおり、おフジさんの介護のキーパーソンとなっている。三男も隣町で一家を構えているが、愛妻を亡くし、父子家庭であった。

おフジさんは週3回のデイサービスを唯一の生きがいにしていた。「おふくろがデイサービスに行っていると俺たちも安心だ」と息子たちも言っている。「デイサービスでよくしてもらっているので、デイサービスに行くのが楽しい」と、朝のお迎えの車が来る前からソワソワする程であった。車の音がすれば「あっ、もうお迎えが来たのかしら?」と、玄関で履物を履き始めるほどであった。

そんなおフジさんが、昨年の秋頃から数段ある自宅の階段の昇降にもひどく時間がかかるようになってきた。ご自分ではご飯を炊くことが出来なくなり、近所にある郵便局にも一人では行けなくなってしまった。狭心症の持病があり、常にニトロ舌下錠を携帯していたという。でも、ご近所の協力、ボランティアの手助け、訪問ヘルパーの援助を受けて、独り身で頑張っていた。年齢の割には認知症状が出ておらず、迎車の中では亡くなったご主人と三人の息子の自慢話をするのが日課であった。

「お正月の三が日はデイサービスもないし、私は誰のところに行けばいいのかしら?」と息子や孫たちと一緒に過ごすお正月を楽しみにしていた。しかし、いつも自慢している三人の息子たちからのお誘いの声はついに掛からなかった。yjimageL03P1LH5

おフジさんの家の異変に気付いたのは、日頃からゴミ捨てを手伝ってくれているお隣さんだった。いつも元気な声でお喋りをするおフジさんが、廊下で倒れているのを発見したのである。すぐに救急車を手配してくれた。倒れていたおフジさんの右頬には赤い痣が出来ており、身体はすでに冷たくなっていたそうである。昨日までは元気にしていた?おフジさんの突然の死であったがために、警察も出動したが、結果は急性心不全であった。

「私が介護します」「週1回は訪問します」と言っていた次男の嫁は、一度来ただけの淋しい終焉であった。この死も「独居死」なのであろうか?私は敢えて言わせてもらえば「無死(無視)」であろうと思わざるを得ない。

伊藤 克之

転職への道

はじめまして。

昨年、12月1日よりケアワーカーとして入職いたしましたJUNと申します。

介護の職につく以前は簿記の学校を出ていることもあり、十年近く経理事務、フロント事務等デスクワークを専門に勤めてまいりました。

しかし、数年前に当時96歳の祖母の介護を通して様々な経験をし、介護の奥の深さ、大切さ、そして難しさを知ることが出来ました。祖母の介護が終えた後もこれからは職業としてご高齢の方々と接していきたいと思い、介護職への転職を決意しました。

最初に入職した特養では調理場での担当となり、2年間介護食・普通食を提供しながら衛生管理の大切さをCIMG0934学びました。その間にヘルパー2級の資格を取得し、本格的に介護職の道を歩もうとこの度、「ういすたりあ」に入職いたしました。

「ういすたりあ」ではデイサービスに所属し、日々利用者様とレクリエーションや入浴介助を行いつつ、楽しくお話しさせていただき、色々な事を学んでいます。昔ながらの伝統行事、生活の知恵など何気なく教えて頂いたことが、私自身には役立つことばかりで、あらためて利用者の皆様は人生の大先輩だと実感しております。

初心者で経験の浅い私は、自信を失って落ち込んでしまう事も度々ありますが、利用者様の「ありがとう」のお言葉や笑顔、そして優しい仲間に励まされながら日々頑張っています。

これからもデイサービスばかりでなく、特定入居者生活介護や訪問介護等々、色々な部署で勉強し、介護福祉士を目指して研鑽を続けていきたいと思っています。

DSC_0281

 

 

 

我が家の癒し猫です。

 

新年あけましておめでとうございます

読者の皆様におかれましては、良いお年をお迎えのこととお慶び申し上げます。

平成26年の「ういすたりあ」を一文字で振り返ると「災」という文字が当てはまると思っている。2月には二度の降雪があり、10月には台風18号による浸水被害が発生した。この後始末のために職員は何度も筋肉痛に苛まれる結果となった。ケアハウスの退去者も例年になく多数にのぼったが、職員の努力で年間を通して空室を作らずにすんでいる。また、職員の退職も数人はあったものの、募集をかけたことによって、それ以上の数の職員を確保することができた。一方、目を国内外に向けてみると、木曽御嶽山の噴火、広島市の土砂崩れ、全国的なゲリラ豪雨による被害、エボラ出血熱感染者の拡大、マレーシア航空機の惨事、韓国旅客船の沈没等々が挙げられ、「災」でなければ「禍」の文字が当てはまるような一年であったと思っている。DSC_0470

そのような中で青色LED発明による3科学者のノーベル賞受賞は明るい話題を提供してくれた。

今年、平成27年はどの様な年になるのであろうか?元旦に降雪があったように、地球温暖化による異常気象が原因で自然災害がまだまだ続くような気がしてならない。韓国、中国との関係からも推測されるように、外交面でも明るい兆しは見られないし、国内でのアベノミクスがたとえよい方向に向かっても、我々庶民がその恩恵を享受するのは大分先のような気がしてならない。そして、今年は統一地方選挙の年でもある。ますます我々は「一票」を大事に行使しなければならない。

消費税10%への引き上げが見送られたために、社会保障費の財源が大分削られそうである。高齢者福祉においても、特別養護老人ホームや通所介護の介護報酬は削減との噂がまことしやかに流布している。介護職員の処遇改善は若干良い方向に見直されるであろうが、それにしても一般企業労働者の所得格差の1割程度の補填にしかならない。2025年にはいわゆる団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になってしまう。この現象より恐ろしいのは、認知症高齢者の出現スピードである。

いまでも高齢者介護の人手不足は叫ばれているが、この数はさらに増え、100万人になるとも言われている。

企業経営に大切なものは「ヒト」「モノ」「カネ」と言われている。資金があってハコモノ(施設)を作ってみたところで、そこで働く「ヒト」がいなければ、このプランは「絵に描いた餅」であり、この三要素を無視して起業すれば、介護業界の質は低下するばかりである。数年のうちには高齢者福祉の世界にも「自然淘汰」による「サバイバル」の時代が到来することは必至であると考えている。

こんなことを考えている私は、今年の目標として「堅実・安定」を掲げることにした。DSC_0461

伊藤 克之

介護分野におけるバウチャー制度

アベノミクスの影響で円安が進み株価が上昇したことによって、製造業を中心をする大企業は大きく業績を伸ばしている。一方、実質賃金指数は、昨年より16ヶ月連続で前年同月比がマイナスである。私の周りには株価の上昇で喜ぶ人よりも消費税3%増や円安による物価の上昇で苦しんでいる人の方が多く見受けられる。

わが国のこのような経済状況の中、親の介護と仕事を両立させるため正社員から転職した人は年収の落差を強いられ、生活苦を余儀なくされている。real_illust_bad40歳以上の男女のうち介護転職をした人の割合は25%、転職先でも正社員として働いている人は男性では3人に一人、女性にあっては5人に一人であった。そしてその収入を見ると、男性は61%、女性は50%へと減少し、四分の三以上の人たちがこの転職を後悔している。(明治安田生活福祉研究所)

そもそも我が国の介護保険制度は、高齢化の進展に伴い要介護高齢者の増加、介護期間の長期化など、介護ニーズが増大する一方で、核家族化の進行、介護する家族の高齢化など、要介護高齢者を支えてきた家族をめぐる状況も変化してきたため、高齢者の介護を社会全体で支えあう仕組み(介護保険)として2000年に創設されたものである。ところが現在の高齢者の介護は、多くが家族での負担となってきている。いわゆる在宅介護である。

原因は、経済的な問題、在宅介護と両輪になる高齢者介護施設が少ないこと、介護労働人口がきわめて少ないこと等々が挙げられる。さらに後者を掘り下げると介護職員の処遇が他の職種に比べて良くないこと、大きくは医療・介護・保育の世界に夢を抱かせない、子育て時における教育の貧困さまでもが考えられる。

そこで私は提案したい。安部首相は教育改革の検討会議の中で「教育バウチャー制度」の検討を揚げているようであるが、介護現場にもこの「バウチャー制度」導入を検討したい。box01_illust1そもそも「バウチャー」とは、引換券・割引券の意味であるが、国や自治体が目的を限定して個人を対象に補助金を支給する制度である。所定の手続きにより引換券として支給する方式が多く、教育・保育・福祉などの公共サービスが対象で、利用者はその中から必要なものを選択して、引換券を提出してサービスを受ける、というものである。

この制度を現在の福祉の現場で利用すれば、在宅介護の高齢者が特別養護老人ホームや短期入所施設等の方が入院中などで空いたベッドを利用券一枚で超短期的に利用できるし、施設側も空きベッドの解消につながる。この受け入れ可能状況については常時インターネットを通じて配信することによって、在宅介護者は短い期間ではあるが、家族の介護から逃れ、休息(レスパイト)を得ることができ、また自らの仕事にも専念できる。

一方、受け入れる施設側では不特定多数の要介護者とその家族がクライアントとなるために、常に第三者評価を受ける立場となり、職員のスキルアップと施設環境改善の努力を怠ることができない。この結果が、施設評価につながり、さらにはわが国の介護レベルのアップにつながり、医療分野において「看護学」というものがあると同様に福祉分野における「介護学」の確立につながるのではないだろうか。illust3258

介護バウチャー制度に対する課題、問題点は山積していることは十二分に承知はしているが、ゴールは「要介護者誰も」が「利用券一枚」で「いつでも」「どこでも」「介護を受けることができる」「介護システム」の構築とレスパイトケア(介護者の休息)である。師走のうちに初夢を早く見すぎた私でした。

伊藤 克之

平均的な日本人の一生

私は身長170.7cm、体重62.8kg、BMIが23.4と、日本人の平均体格をしている。IQは105である。若い時から32.2%の人が苦しんでいる花粉症に罹っている。でも、同じ割合の人が嗜んでいる煙草は止めることができない。

4.3年お付き合いをした妻とは、30.8歳で結婚した。この間1回の費用が3千円から5千円のデートを重ね、クリスマスプレゼントには1万5千円もの品物を奮発した。婚約時には36万4千円の指輪を贈った。

結婚式の費用は3百30万円を費やし、百人弱の参加者に祝福してもらうことができた。110_F_54566250_lvauPma2m9l8dOPDDELyCGrGlYkBQfl2参加者一人当たりのお祝いは、2.9万円であった。6.9日をかけて新婚旅行に行き、一姫二太郎を設けた。子供の数は日本人の平均より若干上回っていると自負している。息子は9.7歳になるまで一緒にお風呂に入ってくれたが、娘は8.9歳までしか付き合ってくれなかった。ちなみに、入浴時間は10~20分である。

通勤に1時間10分をかけ、1日7時間30分働き、残業は週47時間も頑張った。20_03_01年収は408万円であるが、クレジットカードは3.5枚も持っている。月4万5千円の小遣いを妻から貰って、2~3か月に1回の飲み会、2か月に1回の散髪、月1回の映画を楽しみ、年に1回はカラオケに行く。これは推測だが、妻は417万円ものヘソクリを隠している。

宿泊を伴う国内の旅行は4万8千円で我慢するが、海外旅行には21万6千円と大盤振る舞いをする。

マイホームは3614万円をかけて購入した。我が家では、睡眠時間は7時間42分、1日1回の便通があるが、運動習慣は週に1.39日、歩数は1日7791歩である。食事に関して言えば、1日のカロリーは2089㎉だが外食は月に6.3回、回転寿司では11.1皿の寿司を食べる。しかし悲しいことに、昼食代は518円で我慢している。このため、月に6.5回のカレーライス、2~3回のカップラーメンを貪る。この結果、塩分の1日の摂取量は10gにも上り、WHOの定める指標・5gを大きく上回っている。そのためか、日本人の33.7%が罹患している高血圧症になってしまい、毎日の服薬が欠かせない。

将来は、1941万円の定年退職金を貰い、80~84歳頃には要介護者となり、roujin01やがては、日本人の28.8%の死因を占める癌を患い、79.94歳で亡くなるであろう。その準備のために203万円の葬式費用と168万円のお墓を準備しなければならない。心残りは、65.5%の人が反省している「もっと英語を勉強しておけばよかった!」という思いではないだろうか?

(引用文献・日本人の平均:統計確率研究会)           伊藤 克之

 

 

ういすたりあ秋祭り

行楽の秋、読書の秋、そして食欲の秋を迎えて、皆様いかがお過ごしでしょうか。 ういすたりあデイサービス担当の加藤と申します。

11月に入り、今年のカレンダーの枚数も残り2枚と、わずかになってしまいました。

ういすたりあの中庭にはモミジの木や桜の木、藤棚があり、秋になると木々の葉が色づくのですが、まだ紅葉には程遠く・・・。 今年の見ごろは何時頃でしょうね? 楽しみです。

さて、「ういすたりあ」での秋のお楽しみといえばもう一つ。

恒例となっている「ういすたりあ秋祭り」を11月2日(日)に今年も開催致しました。

去年のブログを読んでいただいている方はすでにご存じかと思われますが・・・。
そう、去年は当日悲しいことに大雨で、屋台の設置も手間がかかり大変苦労しました。

実は私、いわゆる「雨女」でして、よく運動会や大事な行事に雨に降られる事が多かったんです。

私が実行委員をやっているばっかりに・・・ と、一緒に準備をしている職員さん達に申し訳ないな~と思いつつ、準備を進めてまいりました。

しかし! しかし! 今年は秋晴れのいいお天気になり、「雨女の汚名返上だな・・・」 と堂々と胸を張って当日を迎えることができました。ほっとひと安心・・・

さてお祭りのメインといえばなんといっても屋台で売る食べ物。今年の屋台は少し趣向をこらして、やきそば、焼き鳥、やきいもを会場で焼いて販売することにしました。

お祭り開始前から焼きはじめていたのですが、だんだんと施設内にソースや焼き鳥のいい香りが漂い、食欲をそそられたのでしょうか、「いいにおいだなあ」と廊下を歩かれていた入居者さんからの声も聞き、「匂い・香り」って想像以上に効果があることを実感しました。今日はもしかしたら売り切れちゃうかも・・・ とほのかな期待も寄せてしまいました。

11:00よりデイルーム内でお祭りを開始。施設長の挨拶から、すぐに食べ物の販売へ。どの売り場も売れ行きがよく、味も「おいしい」と参加された皆様からの感想もいただきました。
DSC02805

なんと言っても祭りの主役はアトラクションです。今年はゲストとして「よさこいソーラン踊り」のサークル「湘南一道麗」様をお迎えし、よさこい踊り、日舞、フォークダンスと様々な種類の踊りを楽しませていただきました。

DSC02791

またボランティアさんが、「よさこい」に使う「鳴子」という楽器をたくさん持ってきてくださり、参加者の皆さん・職員も巻き込んで、「どっこいしょ!どっこいしょ!」 と全員で声をかけあいながら歌って踊ることができ、本当に楽しかったです。また掛け声のなかに、さりげなく「ういすたりあ」と入れてくださり、ボランティアの皆様の粋な計らいと、お心づかいに感謝いたしました。

そして、今年は「秋祭り」と同時に「ういすたりあ文化祭」を開催致しました。編み物や絵画などの皆様からの出展作品に、来場された方々が投票を行うコンテストも行いました。入賞された3名の皆様には記念品をプレゼント。 さて中身は何だったのでしょうね・・・?

お開きの時間には、参加者の皆さんそれぞれが、お土産にやきそば、お寿司などのお土産を手にされてお帰りになりました。
職員全員で、参加された皆様をお見送りすると、出口では「楽しかったよ~」と皆様が声をかけてくださいました。

今年は天候にも恵まれ、予想以上にお客様が来場されました。ご家族連れのデイの利用者、普段デイ利用者のお話相手をしてくださっているボランティアの皆様、そして「にぎやかそうだから、つい入ってみました」と近くの他事業所の職員さんまでお越し下さり、色々な方々に楽しんでもらえたお祭りになったのではないかと思います。

来年はまだどんな内容になるかわかりませんが、また皆さんに楽しんでいただけるようなお祭りが開催できたらと思っています。

デイサービス  加藤 康子

 

 

叶わなかった夢

北の大地・北海道。私はこの地を枚挙にいとまがない程訪れている。かつて北海道の大学で教職の立場であった頃、家族旅行、同窓会の旅行等々である。しかし、何故か「釧路湿原」だけは行ったことがなかった。絵葉書やパンフレットを眺めては、そこに行くことを長年夢に見ていた。そこで、「秋休み」と表現したほうが良い程時期外れの遅い夏季休暇をとって、私は北海道・道東への旅に出ることを思い立った。台風18号の後始末を終え、「骨休めにはちょうどいいかな?」とも思ってまだ見ぬ憧れの地への訪れを心待ちにしていた。ところが湘南地方を直撃した台風18号より勢力の強い台風19号が接近し、不幸なことに台風18号とほとんど同じコースを辿っているではないか。台風19号の被害を心配しつつも、私は滅多にとれない休暇を消化しようと、信頼できる職員に留守を託して、一か八かの旅行を決行した。

10月12日、ANA375便は羽田空港を15分遅れでオホーツク紋別空港に向けて出発した。機長は機内アナウンスで「この遅れはできる限り取り戻す予定」と言っていたが、1本しかない滑走路に着陸した時は25分以上も遅れていた。この辺りからが今回の旅行の不幸の始まりだったような気がするのである。しかし着陸寸前に見えた大雪山連峰はすでに冠雪しており、上から眺める大雪山は素晴らしい景観であった。

紋別空港で出迎えてくれたのは、北紋バスのガイドさんであった。私には「ホクモン・バス」がどうしても「獄門バス」と聞こえてならなかった。なぜならば、ガイドさんは「巨人の星」に出てくる「左門豊作」を女性にして、小さめの制服を無理やり着せたような人だったからである。機長のアナウンスと言い、バスガイドさんの容姿と言い、私は何故かこれからの旅行に一抹の不安と寂しさを感じざるを得なかった。

サロマ湖、能取湖を左に見ながら、DSC_0174 - コピーサンゴ草の群生を見学させられ、着いたところが海産物の土産品店であった。次に向かったのが「博物館・網走監獄」である。50年前にも私は観光で網走刑務所を訪れているが、その時はある検事さんの紹介状を持っていたので、普段観光客が入れない赤いレンガ造りの正門の中まで入れてもらうことができた。今回は当時の刑務所の一部を移設した博物館であったので、獄舎の中まで入り、詳しい説明案内まで受けることができた。私が講義を受け持っていた大学の近くにも「樺戸集冶監」や「月形刑務所」があり、何度か訪れているので、私には刑務所が何故か身近に感じられる。しかし、いくら刑務所に縁があるといっても、ここに入所しようとは思わない。話は逸れるが、私は東京御茶ノ水にある明治大学内の「拷問資料館」もいつか見学したいと思っている。

北国の日没は早く網走監獄博物館を出たころには、あたりはもう薄暗くなっていた。秋の陽はツルベ落とし、第1日の宿泊地・屈斜路湖に向かう道路中ほどにある美幌峠に差し掛かる頃には、あたりは漆黒の闇でどこを走っているのか、どこに連れてこられたのか全く解らなかった。晴れた日の美幌峠は、眼下に屈斜路湖が望め、素晴らしい景色だったことを覚えている。

二日目も曇り。早朝に屈斜路湖を出発し、野上峠を越えて知床に向かった。途中屈斜路湖の白樺が紅葉しており、道路両側の景色は最高であった。斜里、ウトロを抜け、知床五湖の一湖を見物した。どんより曇った知床五湖の駐車場が使用できるのは今年は今日が最後、明日から来年の雪解けまでクローズとのことで滑り込みセーフであった。しかし昼食をとった「さいはて市場」では、しけのためウニが採れないとのことで楽しみにしていた海鮮丼は食べられず、泣く泣くイクラ丼で我慢する。サービスは悪くても、値段は高かった。

再びUターンをして知床峠に向かう。知床峠は風が強く、ひどく寒い。しかし霞んでいる国後島をかすかに望むことができた。DSC_0186 - コピー早々にバスに戻り、野付半島のトドワラに向かう。ここから国後島までの距離は16km、したがってロシア国境までの距離は8kmしかないそうである。漁師さんたちが漁場で苦労されていることが伺い知れた。ちなみにトドワラとはトドのエサではなく、トド松の枯れたものを指すのだそうである。ぼちぼち辺りは暗くなり始めた。雨もポツポツ降り出してきた。摩周湖から10kmも離れているのに「摩周湖・道の駅」と名付けられた道の駅には足湯が設置されていた。「摩周湖・道の駅」には役場の職員が地熱発電を利用してLEDのイルミネーションを点灯させ、周囲の樹木を満艦飾に引き立たせていた。二日目の宿泊地・阿寒湖に向かう阿寒横断道路は、名前は格好いいが、周囲は真っ暗闇で、くねくねと曲がりくねり、ドライバーの腕だけが頼りの怖い道路であった。阿寒湖畔のホテルでは暖房を入れざるを得ないほど寒く、とても露天風呂に入る勇気は湧いてこない。また、湘南地方の台風状況が気になり、テレビを一晩中つけっぱなしにし、問い合わせには携帯電話を多用して、少しでも台風状況を把握するとともに、明日からの自分たちの行程、スケジュールに対する不安を払拭しようと努力することにした。夕飯に毛ガニを注文すると、茹でた毛ガニと鋏だけがドーンと出てきて中の身を食べられるようにするまでには二、三十分の作業が必要であった。我々は黙々とこの作業を続けた。おかげでアイヌ古潭のイヨマンテショーにも行けず、千本松明の行進も見ることができなかった。一晩中テレビに噛り付いていたおかげで睡眠不足の朝を迎えざるを得なかった。マリモを買ってきて、ういすたりあにある金魚の水槽に入れようと思ったが、マリモが金魚の糞で汚れると止められ、諦めることにした。

翌日は遠くに丹頂鶴を眺めながら待望の釧路湿原に向かった。「湘南地方は台風19号の影響はたいしたことはなかった」との報告を受けていたが、今度はこちらが心配である。果たして飛行機は飛ぶのであろうか、風雨はだんだん強くなってきている。気温は10度を下回り、海は大しけ、場所によっては降雪のニュースが流れている。釧路湿原展望台に着くと、風雨はさらに強くなり、湿原がどこにあるのか全く見当がつかなかった。釧路湿原の思い出は、公衆便所で用を足した事のみであった。

最後の見学地、摩周湖第一展望台に着いても冷たい雨は降り続け、DSC_0189 - コピー上から見る摩周湖はただの濁った大きな水たまりに見えた。諦めて根室中標津飛行場に向かった。最後の添乗員の挨拶がこの最悪の旅行の止めを刺した。「最後に告白しますが、実は私、雨女どころか暴風雨女なんです。最近では熊本に添乗した時、台風の接近で1日の延泊を強いられ、知床のウトロ温泉では3日も延泊しました。でも温泉地の延泊は楽しいですよネ」私は「それを旅行前に言え!フザケルナ!」と言いたい衝動に駆られた。果たせるかな、中標津空港では飛行機の到着が遅れ、機材整備にも手間取り、出発が40分も遅れた。さらに上空は気流が悪く、飛行機は大きく揺れた。

こうして私の長年の夢は台風19号、ブスのバスガイド、暴風雨女の添乗員等々のために大きく崩れ去った。しかし、私はもう一度釧路湿原は訪れてみたいと思う。元気であれば可愛い孫と一緒に・・・

伊藤 克之

「心肺停止」と「死亡」

長野県、岐阜県にまたがる御嶽山が噴火して今日(4日)で1週間が経過した。亡くなられた方は47名に達し、1991年の雲仙・普賢岳を上回る戦後最悪の惨事となっている。sc_020Aさらに16名の安否不明者がいると報道されている。過酷な条件のもと二次災害に気を配りながら救助活動に献身されている1000名を超える救助隊員の活動、奮闘には、ただただ頭が下がるばかりである。亡くなられた47名のうち、46名は噴石などによる損傷死、1名は熱傷死といわれている。

この1週間でマスコミは盛んに「心肺停止」という言葉を多用した。死亡と心肺停止ではどう違うのであろうか。「死亡」という文言は、医師もしくは歯科医師が診断して初めて使えるものであって、「心肺停止」「呼吸停止」「脈拍停止」「瞳孔散大」の4つすべてを医師もしくは歯科医師が診断して初めて成立するものである。したがって、医師、歯科医師が「死亡」と診断しなければ死亡と判断できないため、警察、自衛隊、消防隊員等の救助隊は、発見した登山者の状態(心肺停止、呼吸停止等)を見て「心肺停止」としているのである。また、心肺停止状態から蘇生する可能性もあるのである。

「死亡」というのは、単に「人が亡くなった」というだけではなく、厚生労働省が行っている死亡統計や、相続等の法律上の要件として重要な意味を持つのである。「心肺停止」=「死亡」であるとしたら、心臓の手術などで人工心肺を使用して心臓と肺の機能を一時的に停止させると、心肺停止状態になるため、この時点で手術中の人は自動的に死亡したことになってしまい、相続が開始するため、その人の財産はすべて相続人のものとなってしまう。

また、身内の資産家等が亡くなり、相続権を有する人が同時刻に「死亡」とみなされた場合は、本人が相続人として名を連ねられるか否かで死亡時刻も大変重要になってくる。そのため、死亡診断書には死亡時刻、原因、場所等々細かく記載しなければならないことになっている。

今回の御嶽山登山者の中には、親子や親しい仲間同士で紅葉(コウヨウ)を堪能しに行かれた人たちもあったと聞いている。ちなみに紅葉(コウヨウ)とは、DSC_0148 - コピー秋に野山の木々(落葉樹)が冬に備えて落葉する前に紅や黄色に葉の色が変わることや変わった状態を総称するのだそうである。一方、紅葉を『モミジ』と読むと、カエデの中の特定のものを指すのだそうである。広島県の花を形取って作られた「もみじまんじゅう」 カナダ産のカエデの樹液から作られた「メープルシロップ」は有名ですが、「紅葉狩り」に行き、美味しいものを食べ、景色を堪能しながらも、御嶽山で尊い命を落とされた方々への冥福を祈ることだけは心がけたいものである。
伊藤 克之

 

今はもう秋 誰もいない海♪♪♪ トワ・エ・モアの唄う名曲は、中年以上の高齢者にとっては深い哀愁を掻き立てられる歌であろう。あの暑かった夏が終わり、凌ぎ易い季節がやってきた。秋は実りの秋、食欲の秋、読書の秋でもある。食べ物が美味しく、「天高く馬肥ゆる秋」でもあり、「人も肥ゆる秋」でもある。旬の美味しい物を食べると健康になるという意味から「柿が赤らむと医者が青くなる」「サンマが出るとあんまが引っ込む」とも言われている。

「秋茄子は嫁に食わすな」「秋サバは嫁に食わすな」と言った諺もあり、美味しい茄子や旬のサバを嫁に賞味させるのはもったいないと言った嫁いびり説や茄子は体を冷やすから、またサバは食あたりしやすいので大事な嫁の食膳に出さないようにと言った嫁擁護説が言い伝えられている。

読書の秋にちなんで古書を紐解いてみると、山夕(さんせき、下の句が「秋の夕暮れ」で終わる有名な三つの句のこと)という文字が目に入ったので紹介させていただく。夕暮

寂しさは その色としもなかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮法師)

見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮 (藤原定家)

心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮 (西行法師)                (大磯町にある鴫立庵が、西行法師が吟遊中にこの句を歌った場所である、ここで売られている西行饅頭は得意な格好をしており、一度食してみる価値がある)

また、秋には「秋の七草」なるものがある。「春の七草」は「七草粥」にして食べるなど“食”を楽しむものであるが、「秋の七草」は花を“見る”ことを楽しむものとされている。この「秋の七草」は山上憶良が万葉集の歌で選定し、今に至っている。

秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花    萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花 (朝貌は朝顔ではなく「桔梗」であるとの説が定説)

「秋」をひとつ紐解くだけで、歴史をたどり、古きを尋ねる旅に出ることができるのである。これが現代になると、「一日千秋」「物言えば唇寒し秋の風」「女心と秋の空」「秋の夜と男の心は七度変わる」等々変わってくるものである。しかし、そうは言っても「和」をもってホスピタリティーを実践する介護の世界には、「秋風が吹く」と言った諺は近寄ってもらいたくないものである。

そして、秋といえば日本の大衆魚「秋刀魚」が真っ先に頭をよぎる。秋刀魚落語に出てくる「目黒の秋刀魚」のように、炭火で焼かれた「尾頭付き」の秋刀魚は、血行を良くし、脳梗塞や心筋梗塞を予防し、悪玉コレステロールを減らす効果のある成分を多く含む。秋刀魚の頭と尾を切り落とし、フライパンの大きさに合わせて焼かれた現代風の秋刀魚は、お江戸の殿様でなくとも敬遠したいものである。

伊藤 克之

「浅草サンバカーニバル」

今回は、8月23日(土)に東京の下町浅草で開催された「サンバカーニバル」を観て来たお話をしたいと思います。何故かと申しますと、いつもお世話になっている先生が出場していたことと、一度自分の目で本場のサンバを観てみたかったためです。DSC_0113DSC_0118

台東区浅草寺周辺で開かれたカーニバルには、1チーム平均300人(年輩者~児童まで)のダンサーがラッパや太鼓のリズムに合わせて情熱的な踊りを披露し、たくさんの沿道の観衆を魅了していました。DSC_0072

参加されているチームの話では、大使館勤務の方や医師に看護師、サンバの本場である外国人ダンサーもこの日のために来日しているとか…。また、各チームはボランティア活動として福祉施設等への訪問もされているそうです。DSC_0099

「浅草でサンバ」という話しを最初に聞いたときは、聞き間違えたのか?と思いましたが、今年で33回を迎えるのだそうです。どうして浅草でサンバ?…と、知りたくなって調べてみました。DSC_0130

浅草でサンバをするきっかけは、浅草といえば「江戸下町情緒」「粋」というイメージがありますが、実は大の「新しもの好き」なのが浅草ッ子なのだそうです。明治時代には日本最初の映画館や、日本で初めてエレベーターを取り付けた12階建ての赤レンガビル「凌雲閣」、水族館、サーカスなど、浅草には他の町にはない新しい文化がどんどん取り入れられてきました。 また、大正時代になると「大正オペラ」や「安来節」で賑わい、幅広いジャンルの音楽劇を生み出してきました。 歌って、踊って、楽しむサンバカーニバルと浅草の結びつきはすでにこの頃からあったようです。 そうした背景のなか、昭和30年代後半から40年にかけて、盛り場の中心は、他の地区に移っていきました。 このような状況の中で当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎氏が、浅草の新しいイメージをつくるお祭りとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草で開催することを提案し、これをきっかけに浅草の商店連合会が主体となって浅草観光連盟にも呼び掛け、浅草サンバカーニバルは誕生しました。こうして浅草サンバカーニバルは産声を上げ、東京下町の夏を代表するお祭りのひとつにまで成長したという訳です。 現在では、出場するチームも全国区のものとなり、またサンバの本場、ブラジルの人たちからも非常に高い評価をいただいているそうです。DSC_0145

薀蓄はこの位にして、皆様も是非一度「浅草サンバカーニバル」ご覧になってみては如何でしょうか?色とりどりの羽根飾りを付けたダンサーの華麗なステップに大迫力の演奏がきっとやみつきになるかも…ヽ(^o^)丿 (リポーターは石田忍でした!)DSC_0061DSC_0035