お休み処「わびすけ」

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京都駆け足旅行

♫京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城に塩瀬の素病の帯が 池の水面にゆれていた・・・♫。 永六輔の詞にいずみたくが曲を付け、デューク・エイセスが唄った名曲である。

小雨のそぼ降る中、紅葉にはまだ早い大原三千院を訪れた。大原の地には千有余年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽の発祥の地だそうである。三千院は京都市街からバスで1時間弱かかり、小浜に抜ける国道367号線から少し入ったところにある。国道367号線は「鯖街道」とも呼ばれ、小浜湾で獲れた海産物などを京に運ぶために使われた街道だそうである。特に京では小浜の鯖が好まれたことから、この呼び名が付いたといわれている。

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*『苔庭で可愛く首をかしげる“わらべ地蔵さん”』

 

三千院門跡は山号を魚山と呼び、開祖は最澄、ご本尊には薬師如来を祀る、天台宗五箇室門跡の一つである。往生極楽院に納められている国宝・阿弥陀如来の両脇には日本式の正座をした両脇侍が跪き、特異な姿を見せていた。

私が約40年前に訪れたときに、確か客殿に掲げられてあった「洗除無垢」の書に出会えなかったのは非常に残念であったが、他の場所に掲げられていた「無己利他」の書に出会えたのは幸運であった。DSC_0816 - コピー何故ならば、「ういすたりあ施設内研修」でシリーズ開催していた「人間力向上研修」の中で講師が説かれた「自喜喜他の心」(見返りを期待せず、常に「人の喜ぶこと」「人が感動すること」「人のためになること」を自らの喜びとし、それを具体的な「形」に表していくと、その人には“人間的魅力”という見返りとともに、“限りない感動”が訪れるという意味)という言葉を思い出し、まさに「自喜喜他」が「無己利他」の現代版の教えと思えたからである。

「恋に疲れた和服の女」には出会えなかったが、「心を満たす書」に出会えて幸運だったと思っている。

翌日は電車を使って「渡月橋」「天龍寺」そして今テレビコマーシャルによく出てくる「竹林の道」を回った。天龍寺では「大方丈(方丈は住職の居室の意)」の広い縁側に腰を下ろし、眼前の「曹源池」の景観に見とれている多くの外国観光客の姿があった。事実、私も素晴らしい景観を堪能させていただいた。DSC_0831 - コピー

しかし、瞳の色が異なる外人さんたちには、この素晴らしい景色が、私の観たものと同じように映っているのだろうか?

『目はカメラにたとえられますが、カメラの絞りに当たるのが虹彩です。虹彩は、目を正面から見たときに黒目の中に見える部分です。虹彩の真ん中には、光を通すための瞳孔という窓があります。虹彩にはメラニン色素が含まれており、色素が多いと黒や茶色、少ないと青や緑色の瞳になります。

それでは、目の色によって見え方は違うのでしょうか? 厳密には、光が反射して目に入る量が違うので微妙に色が違って見えると思います。しかし、普通に物を見る分には、色や見え方にそれほどの違いはないのです。なぜなら、色を識別するのは網膜だからです。

実は、哺乳類の中で色鮮やかな世界を楽しんでいるのは、人間とサルだけだそうである。例えば犬や猫には色を感じる錐体(色を識別する視細胞の一つ)がないので、モノトーンに近い世界を見ているのである。』(坂井建夫・面白くて眠れなくなる人体)

ニャンともおきのドッグな世界である。

伊藤 克之

酒(焼酎)談義

猛暑の日が長く続き、夏の日差しに閉口していると、突然曇りや雨模様の日が半月以上も続き、その最後には莫大な量の雨が降り、鬼怒川の堤防は決壊しその周辺に甚大の被害をもたらした。朝起きて澄んだ青空の向こうに富士山を望むことができたような気がする。すぐに、秋の季節が訪れてくれても大歓迎である。秋が肌で感じられれば、私はいつでもビールから酒・焼酎への衣替え(?)の準備はできている。

酒といえば、宮崎県日向市出身の若山牧水が頭に浮かぶ。酒を愛し、旅を愛し、自然を愛した国民的歌人、若山牧水である。彼は若山家の長男であるがゆえに、父の後を継いで医者の道に進むのか、文学の道に進むのか、進路についてはかなり悩んだそうである。しかし、どうしても文学の道を捨てきれず、牧水は早稲田大学文学部に入学したのであった。

yjimageOY4J1CAH「幾山河 超えさり行かば寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」の歌は有名であるが、私は「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり」といった歌も忘れ難い。

酒といえば一番先に頭に浮かぶのが「日本酒」であろう。冷酒で飲む日本酒は別格である。しかし、秋が過ぎ冬になると熱燗も捨て難い。とは言うものの、現在「糖尿病予備軍」と主治医に脅かされている私は、いまは焼酎を愛飲している。それも奄美諸島特産の「黒糖焼酎」をロックで。

戦中は酒も配給制になり、水で薄めて(所謂「金魚酒」)飲んだ人も多かったという。

独り酌む この薄酒のひや酒も のめば酔うもの 水よりは濃き(岡本大無)

私の持論であるが、酒・アルコール類は生一本で飲むべきだと思っている。それを水やお湯、炭酸水や清涼飲料水等で割って飲むのは、酒の本当の味が解らないどころか贅沢な飲み方だと思っている。

黒糖焼酎は、その名の通り黒糖を主原料とした焼酎であるが、ラム酒との違いは米麹を使っているか否かだけだそうである。黒糖は本来、米麹なしにアルコールを生成できる。しかし、黒糖焼酎の条件は米麹を使用することである。米麹を使わないと、サトウキビが原料の蒸留酒であるラム酒と同じ酒になり、酒税法上もスピリッツ(アルコール度数が45度以上)扱いになってしまうからだそうである。これらの酒類が消費税10%増税時には、負担軽減税率の対象から除外されそうである。なんとも寂しい限りである。

しかし、仲間外れにされても焼酎をロックで美味しく飲んで、その憂さを晴らそうではありませんか。yjimage2VZGK2FHその秘訣は、「まずい」うえに「溶けやすい」冷蔵庫の氷ではなく、美味しい氷を使うことである。コンビニなどでも手に入るロックアイスを使うのである。

そしてロックグラスに大きめの氷を入れたら、焼酎を注ぐ前にグラスの氷をスプーンなどでステアし、溶けた水を捨てる。こうするとグラス内面の表面温度が下がるため、この先、氷がゆっくり溶けるようになる。焼酎を注ぐときには、氷にゆっくり当てるように注ぐ。こうすることで常温の焼酎を冷やしながら注ぐことができる。濃く深い味わいの焼酎を、溶けた水でゆっくりとなじませて飲むロック。時間を楽しむように、粋に行きたいものである。《焼酎の基本・枻(えい)出版社》

私のブログの読者の一人に田城さん(女性)が居られる。田城さんは、平塚・明石町で「食彩酒房・あおば」も経営なさっている。この生意気な拙文を読んで、次回の入店を断られなければとヒヤヒヤしながら筆を置く。

伊藤 克之

終戦記念日と褌

歳を取ると物忘れが激しくなる。ましてや7月末から今日にかけてのように、連続猛暑日が続くと、この現象はさらに激しくなる。「まず人の名を忘れ、次に顔を忘れる。それからチャックを上げるのを忘れ、次にチャックを下すのを忘れる」
カーディナルスやドジャースのマネージャーとして米国大リーグの発展に貢献したブランチ・リッキーの名言である。

私がモノの名前を忘れなくても、モノの呼び名が変わってしまうものやモノそのものが他のモノにとってかわられたり、なくなってしまうモノが多々ある。消費者物価指数の調査品目は、現在588品目であるがこれも5年ごとに見直されている。1960年には「三種の神器」といわれたテレビ、冷蔵庫が加わり、マッチ、わら半紙が外された。1990年にはワープロ、コンタクトレンズが加わり、2000年にはカセットテープと2層式洗濯機が外れた。(神奈川新聞・照明灯)

同じ部屋をさすのに祖母は「お勝手」母は「台所」娘は「キッチン」と呼ぶ。親は「ピンポン」をしているつもりでも、子供たちは「卓球」をしているという。(早稲田大学名誉教授・中村明)これらはモノそのものではなく、時代の変化に付随した「呼称の変遷」であろう。

この暑い時期に、私が何より羨ましく思うのは、女性のミニスカート、ホットパンツ姿である。「涼しくていいだろナァー」
このホットパンツも昔は「ブルマー」「ショートパンツ」「短パン」とか呼んだのではないだろうか?yjimageG5KEDUHN「サルマタ」がいつの間にか「パンツ」「ブリーフ」「ショーツ」になり、「パンツ姿で外を歩けない」と思っていたら、いつの間にか「ズボン」が「パンツ」に代わっていた。「Gパン」も「ジーンズ」と呼ばれるようになっていた。

しかし、考えてみたら男性にも暑さ凌ぎの武器?があった。「褌・フンドシ」である。これさえも「越中ふんどし」「六尺ふんどし」があり、医療分野では「衛生帯」と呼ぶ。伝統的な祭りの行事や神輿を担ぐときなどは「締め込み」といい、相撲の世界では「まわし」と呼ぶ。
「越中フンドシ」は股間が涼しくてよい。涼しいばかりではない。「前垂れ」の部分は、用をたし、手を洗った後の「手拭き」にはもってこいである。そればかりではない。太平洋戦争末期、沖縄では住民を巻き込んだ地上戦が3か月にも及んだ。「白旗の少女」として知られる比嘉富子さんは避難先の洞窟で出会った老夫婦が作ってくれた白旗を掲げ米軍に投降する。この「白旗」こそが「フンドシを裂いて作った」ものであった。

肉親や兄を亡くし、姉妹ともはぐれ、死体だらけの川の水を飲み、一人で生きながらえてきた比嘉さんには、自分が生きていることへの良心の呵責があったという。当時沖縄では、米軍の捕虜になることを嫌い、自決や断崖絶壁からの投身自殺、肉親が肉親の命を絶つことが行われていたからである。比嘉さんに「白旗」を作ってくれた老夫婦はどうなったのであろうか・・・

8月15日は我が国の終戦記念日である。yjimageS5NST322

伊藤 克之

宿場町平塚・大磯

「湘南ひらつか七夕まつり」は梅雨時に開催されるため、DSC_0574いつも雨にたたられる。梅雨の合間に拙宅の二階に上がり西方を見ると、雨に洗われた富士山と丹沢山塊が望める。左側に目を移すと、標高168mの丸い形をした高麗山が見える。この高麗山の後ろ側には、相模湾、江の島、三浦半島、時には房総半島まで望める「湘南平」がある。

私の小学校時代の遠足は、徒歩で学校(今の大野小学校)を出て高麗山から尾根伝いに湘南平までを踏破する強行軍であった。どれほどの距離を歩いたのであろうか、水筒を肩から掛け、お弁当を入れたリュックサックを背負って、ひたすら歩き続ける、まさに遠足であった。

中学(浜岳中学)の社会科の授業で、「あの高麗山はペテン山ともいう。歌川広重の「東海道五十三次」平塚宿の絵でよく解るように、yjimageB4FR6QQZ高麗山は平塚宿から見ると旅人の目には街道の真正面に山があるように見える。平塚宿の宿屋の客引きは、何も知らない旅人に『この先あの山を越えなければならない。あの山は暗くなると山賊が出る。今晩はここに泊まった方が良い』と嘘を言って旅人を呼び込んでいた。だからペテン山と呼んだのだ」と教えてもらったことがある。

また、高麗山の麓に「化粧坂(けわいざか)」という地名がある。鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。この地名は、当時の大磯の代表的な女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なここにある井戸の水を汲んで化粧をしたので、やがてこの井戸は「化粧井戸」と呼ばれるようになった。この井戸の名に因んでこの緩い登り坂に「化粧坂」という名がついたといわれている。

私が社会科の先生から聞いた話では、「平塚宿に大名行列が宿をとった時に平塚宿の芸者衆だけでは手が足りず、大磯宿の芸者衆の手も借りたという。東海道五十三次の七番目の宿場町・平塚宿と八番目の宿場町大磯宿との距離は一里を切っているとはいえ、大磯宿から平塚宿まで急いで駆けつけると、芸者衆の化粧が落ちてしまう。その化粧を道中直したところが「化粧坂」であると聞いた。真偽は定かではない。

因みに、虎御前は「曽我物語」の主人公、曽我十郎祐成(すけなり)の愛妄として知られている山下長者(平塚市山下)の娘(遊女)で、詩歌、管弦に通じ、大層な美人であったという。

社会科の授業の話に戻そう。先生は、「東海道に面した大磯の民家には縁側がないのが特徴である」と諭された。これは江戸・日本橋を出発した旅人が、旅の疲れを癒すために無断で腰を下ろして休憩されるのを防ぐためだという。私は経験がないが、四国霊場八十八ヶ所を巡るお遍路さんにお茶やお菓子で「おもてなし」をするという四国の人たちとの違いは、歴史や風土の違いから来ているのであろうか。

大磯は、明治18年初代陸軍軍医総監であった松本順が、日本で初めて海水浴場を開設し、「日本海水浴場発祥の地」として知られているが、その後多くの著名人が別荘を好んで建てた地でもある。yjimage0KFUPGZ1忘れてならないのは「湘南発祥の地」でもあるということである。中国湖南省にある洞庭湖の畔、湘江の南側を湘南というが、その地に大磯が似ているとこから湘南と呼ばれるようになったと書かれた碑も存在する。

朝鮮・高句麗からの渡来人が居住し、集落を作ったことから「高麗山」の名がついたといわれている平塚宿のすぐお隣の大磯・高麗地域。この地から金氏が花水川を遡って開いたのが金田や金目であり、秦氏が開拓したのが秦野盆地であるとも言われている。

伊藤 克之

 

父の日とサラリーマン川柳

6月の第三日曜日、今年は21日が「父の日」である。5月の第二日曜日の「母の日」を追って「父の日」の習慣が始まったのは約100年前のアメリカからと言われている。アメリカ、日本、フランス、インドなどが6月の第三日曜日を「父の日」としているが、北欧の多くの国は、11月の第二日曜日を「父の日」としている。また、イタリアは、キリストの父親である「聖ジュゼッペの日」が「父の日」である。一方ドイツの「父の日」は、キリスト昇天祭の日が「父の日」であり、「男の日」でもある。

この「父の日」にちなんで、保険ショップ「保険クリニック」は全国20歳~60歳までの既婚者の男女各250名を対象に「夫の価値を金額にするといくら?」というアンケート調査を実施している。このアンケート結果によると、「妻が思う夫の価値」も「夫が思う自分の価値」も第1位は「お金に表せないくらいの価値がある」という結果になっている。解釈の仕方によっては、嬉しくもあり悲しくもありといった結果である。『皮下脂肪 資源にできれば ノーベル賞』といったところであろうか。

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しかし、2位、3位を見ると、夫婦の見解は大きく異なってくる。「妻が思う夫の価値」は2位が「1万~99万円」3位が「0円」となり、お父さんにとっては非常に悲しい結果になっている。『湧きました 妻よりやさしい 風呂の声』『記念日に 「今日は何の日?」 燃えるごみ!!』『壁ドンを 妻にやったら 平手打ち』何をか言わん哉である。

「夫が思う自分の価値」の2位は「0円」、3位は「1億~2億9,999万円」となり、男性の自信のなさと尊大さが相半ばしている。『増えていく 暗証番号 減る記憶』 『あゝ定年 これから妻が わが上司』 (第28回第一生命サラリーマン川柳コンクールより)

我が家の家計簿の帳尻が赤くなると、真っ先に削られるのがお父さんの小遣いである。パチンコを我慢し、たばこを止め、ワンコインで昼めしを食べる。さらには昼食も社員食堂でと、ケチって、ケチって居酒屋に通う。こんなお父さんの唯一の楽しみである晩酌のお酒が、消費税軽減税枠から外されそうである。2017年4月に予定されている消費税再引き上げに際して、お酒やたばこ、砂糖などは生活必需品控除品目に入れてもらえないといわれているからである。何故なら、これらの品目はメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の根源とみなされているからなのである。

日本経済の高度成長期に「企業戦士」と言われ頑張ったお父さん。SKDもAKBも区別がつかず、戦士と言えば「セーラームーン」しか解らないお父さん。スマホが使えず、ガラケーで頑張るお父さん。そして現在は介護保険料を値上げされた一方で、年金まで減らされるお父さん。『ひどい妻 寝ている俺に ファブリーズ』 『里帰り 孫が来るたび 諭吉去り』 『愛犬の 同情した目 癒される』DSC_0567

父の日や 冥途の路の一里塚 嬉しくもあり 嬉しくもなし

伊藤 克之

眠 り 雑 感

「春眠暁を覚えず」で言い訳ができる時季は過ぎたのに、最近私はよく眠る。昭和35年、東宝で封切られた黒澤明監督の作品の「悪い奴ほどよく眠る」のたとえもあるが、私自身は、自分が悪人だとは思っていない。年齢的な問題、仕事による疲労、そして晩酌の焼酎のせいだと思っている。就寝し眠りに落ちる時間も早いが目覚める時間も早く、翌朝三時、四時には目が覚める。原因は尿意を覚えてトイレに行くことにあるのだが、この時間からベッドを出るまでの時間が、私には貴重なのである。考え事をするのには頭が冴えていて、一番都合が良い。思考すべきことがないときにはテレビにお相手をしてもらっている。でも、この時間は何とコマーシャル・メッセージが多いことか。歳をとると、どうも短時間の睡眠の繰り返しになるようである。

一方、乳幼児はよく眠る。ma_210_1_[1]乳幼児にとって「眠る」と言うことは大切な仕事であり、発育・成長のためには眠らなくてはいけないのである。何故ならば、成長ホルモンは睡眠中に多く分泌されるからである。

眠り・睡眠に関して忘れてならない人の一人に元慶応義塾大学医学部教授でイワン・パブロフのもとで条件反射学研究された、林髞(ハヤシ・タカシ)先生がいる。林先生の著書は枚挙にいとまないが、昭和33年に「頭脳」35年に「頭の良くなる本」を出版され、パンは白米よりもビタミンB類が多いから頭によい、と唱えて評判になった。また、林先生は木々高太郎のペンネームで探偵小説〈現在の推理小説)も行っていた。この林先生が昭和44年に出版された「あなたも四時間眠ればよい」(双葉社)と言う本を興味深く読ませてもらったのを覚えている。勿論、林先生の「生理学概論」は、教科書として大いに活用させてもらった。

元総理大臣の小泉純一郎氏の筆頭秘書官であった飯島勲著「リーダーの掟」の中に、「世界を牛耳る国家元首は、いつ眠るのか」と言ったくだりがある。ナポレオンの睡眠時間三時間が有名であるが、「鉄の女・サッチャー」元首相も睡眠時間は三時間だったそうである。yjimage[10]飯島氏はこの著書の中で眠りに関する官邸調査「生物と睡眠のナゾ」を発表している。これによると、哺乳類の平均睡眠時間で一番長いのがナマケモノの20時間、ネコ、ハムスターの14時間、ヒト、ブタの8時間、ウシ、ウマ、ゾウ、ヤギの3時間とある。どうやら我々はブタと同等らしい。

また、魚は目を開けたまま睡眠行動をとっているという。しかし、多くの魚にはマブタはなく、フグやサメのようにマブタを持つ魚類でも、眠るときにはマブタを閉じることなく、障害物から目を守るときのみ目をつぶるのだそうである。そして泳ぐのをやめるとエラから取り込む酸素が不足して死に至ってしまうマグロは、休息行動が見られないため、睡眠をどうとるのかは不明だそうである。

さらに渡り鳥は飛びながら眠るわけではなく、沿岸の波の静かな海面に浮いて眠ったり、陸上に降りて眠ると記されている。

ところで農業生物資源研究所の調べによると、17年間も眠って雨を待っているムシがいると謂う。ネムリユスリカはyjimagePRDGQ71Jアフリカの半乾燥地帯の水たまりに生息する。干上がると眠りにつき、雨が降ると水を吸って目覚める。最長記録は17年だそうである。生物の生命活動に水は不可欠であるが、ネムリコスリカは水に代わる特殊な糖(トレハロース)を大量に合成、蓄積できるためなのである。

私たちもこのような特殊な才能を有することが出来れば、寝だめ、食いだめも可能となるのだが・・・

伊藤 克之

桜・サクラとお釈迦様

春と言えば、日本人の誰しもがまず思い浮かべるのはサクラであろう。サクラは日本人が古来からもっとも愛した花である。

一方、ヨーロッパ人はバラを愛でる傾向にあるようである。しかし、バラは桜花のもつ純真さに欠けている。それのみならず、バラはその甘美さの陰にトゲを隠している。また、バラはサクラを違っていつとはなく散り果てるよりも、枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。その生への執着は、死を厭い、恐れているようでもある。DSC_0509

私たちの日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧いの下にとげや毒を隠し持っていない。自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる用意がある。

敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)と詠まれているように、私はここに日本の武士道と西洋の騎士道の違いがあると思っている。

どう言う訳か、私は4月になると釈迦の降誕を祝う灌仏会(花祭り、仏生会、浴仏会とも言われている)の甘茶と稚児行列を思い出す。60年以上前にたった一度経験しただけなのに、何故かその印象は私の記憶に鮮明に残っている。そこで、お釈迦様のことを調べているうちに、心を打たれる文章に出会ったのでここに紹介をさせていただく。出典は「変わりたいあなたへの33の物語」と思われる。

 

お釈迦様と悪口男のお話

あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。

「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めているのだ。いまいましい」

男はそう言いながら、お釈迦様をギャフンと言わせるための作戦を練っていました。

ある日、その男は、お釈迦様が毎日、同じ道のりを散歩に出かけていることを知りました。

そこで、男は散歩のルートで待ち伏せして、群集の中で口汚くお釈迦様を罵ってやることにしました。

「お釈迦の野郎、きっとおれに悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人々が見たら、あいつの人気なんてアッという間に崩れるに違いない」

そして、その日が来ました。

男は、お釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。

お釈迦様は、ただ黙ってその男の言葉を聞いておられました。

弟子たちはくやしい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様にたずねました。

それでもお釈迦様は、一言も言い返すことなく、黙ってその男の悪態を聞いていました。

男は、一方的にお釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたり込んでしまいました。

どんな悪口を言っても、お釈迦様は一言も言い返さないでので、なんだか虚しくなってしまったのです。

その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男にたずねました。

「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものだろうか?」

こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。

「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな!」

男はそう答えてからすぐに、「あっ」と気づきました。

「そうだよ。今、あなたは私のことをひどく罵った。でも、私はその罵りを少しも受け取らなかった。だから、あなたの言ったことは、すべてあなたが受け取ることになるんだよ」

 

人の口は、恐ろしく無責任なものです。

ウワサとか陰口というものは、事実と違ってずいぶんと出鱈目なことがよくあります。ウワサや陰口だけではありません。図太い神経の持ち主で、目の前にいる相手に向かって、直接ひどいことを言う人もいます。自分を非難されるようなことを言われたら、たいていの人がダメージを受けます。傷ついて落ち込んでしまったり、腹が立ってイライラしたりすることもあるでしょう。

 

でも、お釈迦様は違いました。人前で恥をかかされることを言われても、ちっとも動じません。その場を立ち去ることもせず、じっと相手の話を聞いているのに、口応えもしません。それでいて、まったく傷ついたり怒ったりしないのです。

お釈迦様は、相手の言葉を耳に入れても、心までは入れず、鏡のように跳ね返しました。ですからまったくダメージを受けていないのです。

言葉は時として、人の心を傷つけることのできるナイフになります。しかし、心がナイフよりも固くて強ければ、痛くも痒くもないのです。DSC_0522

ひどいことを言う相手を責めても仕方ありません。それより、自分の心を強くする方が簡単で効果的です。   伊藤 克之

お節句前の誕生日

神宮式年遷宮は20年に一度、信州・諏訪で開催される「御柱祭り」は6年に一度、五輪やワールド杯は4年に一度やってくる。優良運転手の免許更新でも5年に一度なのに、何故か私の誕生日は毎年やってくる。あッ!失礼。これは皆さんも一緒でしたね。

私は、干支が酉にあたる昭和20年3月2日生まれ、一応戦中派である。同い年には吉永小百合さん(3月13日生)がいる。私は自分の若さをPRしようと思うときは、実年齢よりずっと若く見える容貌を持っている彼女の名前を無断拝借して、「年齢は吉永小百合さんと一緒です」とPRしている。ちなみに、毎週「笑点」でお目にかかる三遊亭小遊三師匠は1947年生まれ、優木まおみさんは1980年の3月2日の生まれである。また、高知県生まれで酒豪の島崎和歌子さんも1973年の同月同日生まれである。人見知りで引っ込み思案の私は、天衣無縫、豪放磊落の彼女の性格にいつも憧れを抱いている。ただ、一点、誕生日のことで自慢できないことは、あの地下鉄サリン事件の主謀者松本智津夫こと麻原彰晃も同じ誕生日(1955年)であるということである。yjimage[3]

70歳と言えば「古希」である。古希は、杜甫の詩「曲江」の「人生七十古希なり」に由来し、そこで詠われているような古人からすれば私は大分長生きをしていると思っている還暦、喜寿、米寿といったお祝いは満年齢で行うものではなく、数えの60歳、77歳、88歳で行うものらしい。古希然りである。残念なことに家族を始め、私の周囲の人間たちは一年間私に対する古希のお祝いのイベントを知らんぷりして無視してきた。もし今年になって私が催促しても、「お祝いは数え年で行うものよ。満年齢で行うものではありません!」と恍け通すに決まっている。私は次の喜寿のお祝いの年まで、黙して語らず、我慢しようと思っている。

辛抱をすれば心の中に心棒(芯棒)ができ、さらに頑張ればそれが信望となる。と、誰かが言っていたことを思い出す。

昭和20年生まれは、干支でいうと「酉年」である。「鶏」は十二支を浸透させるために「酉」という文字を変化させたものだと言われている。

木鶏とは木彫りの鶏のように全く動じない、闘鶏における最強の状態を指す。木鶏という言葉は日本の格闘技の選手が良く使っている。横綱・双葉山は、連勝が69で止まった時に、「未だ木鶏たりえず」と語ったし、現横綱・白鵬の連勝が63で止まった時に、彼は「いまだ木鶏たりえず、だな」と述べたことは記憶に新しい。

私もこの木鶏を目標に周囲の人々を動揺させることなく、毎晩泉重千代さんが愛飲された黒糖焼酎を飲み、来るべき「喜寿」を目標に、焦らず、健康に留意して、一歩一歩精進しようと思っている。何故ならば、誕生日は3月2日であり、DSC_0478桃の節句の前日である。「節句まえ、急ぐまい」である。     伊藤 克之

 

これも孤独死?

孤独死という言葉には、明確な法的定義がないため、警察による死因統計上は変死として扱われている。したがって現在全国規模の孤独死の統計はない。一般的に「一人暮らしをしていて、誰にも看取られずに亡くなった場合」(東京新聞)、「誰にも看取られず、死亡すること。特に、一人暮らしの高齢者が自室内で死亡し、死後しばらくしてから遺体が発見されるような場合についていう」(三省堂・スーパー大辞林)と解釈されていることが多い。

孤独死の類似語に「孤立死」「独居死」「無縁死」「行旅死亡人」等がある。

『社会から「孤立」した結果、死後長期間放置されるような「孤立死」』 『一人暮らしではあっても肉親や社会との交流のある人が、心臓発作などによって誰にも看取られずに亡くなる「独居死」』 『一人孤独に亡くなり、引き取り手のない「無縁死」』 がそれである。一方、『住所、居所、もしくは氏名が知れず、かつ遺体の引き取り者なき死亡人は、行旅病人および行旅死亡人取扱法で「行旅死亡人」と規定されている』yjimageLWT1SK64

新年・未年の松飾りがとれて間もなく、おフジさんが亡くなった。90歳であった。おフジさんは数年前に連れ合いに先立たれてしまい、三人の息子はそれぞれ独立しているため独り暮らしであった。長男は近隣市に住んでいるものの、おフジさんとは普段から交流はほとんど皆無であった。次男は東京に住んでおり、おフジさんの介護のキーパーソンとなっている。三男も隣町で一家を構えているが、愛妻を亡くし、父子家庭であった。

おフジさんは週3回のデイサービスを唯一の生きがいにしていた。「おふくろがデイサービスに行っていると俺たちも安心だ」と息子たちも言っている。「デイサービスでよくしてもらっているので、デイサービスに行くのが楽しい」と、朝のお迎えの車が来る前からソワソワする程であった。車の音がすれば「あっ、もうお迎えが来たのかしら?」と、玄関で履物を履き始めるほどであった。

そんなおフジさんが、昨年の秋頃から数段ある自宅の階段の昇降にもひどく時間がかかるようになってきた。ご自分ではご飯を炊くことが出来なくなり、近所にある郵便局にも一人では行けなくなってしまった。狭心症の持病があり、常にニトロ舌下錠を携帯していたという。でも、ご近所の協力、ボランティアの手助け、訪問ヘルパーの援助を受けて、独り身で頑張っていた。年齢の割には認知症状が出ておらず、迎車の中では亡くなったご主人と三人の息子の自慢話をするのが日課であった。

「お正月の三が日はデイサービスもないし、私は誰のところに行けばいいのかしら?」と息子や孫たちと一緒に過ごすお正月を楽しみにしていた。しかし、いつも自慢している三人の息子たちからのお誘いの声はついに掛からなかった。yjimageL03P1LH5

おフジさんの家の異変に気付いたのは、日頃からゴミ捨てを手伝ってくれているお隣さんだった。いつも元気な声でお喋りをするおフジさんが、廊下で倒れているのを発見したのである。すぐに救急車を手配してくれた。倒れていたおフジさんの右頬には赤い痣が出来ており、身体はすでに冷たくなっていたそうである。昨日までは元気にしていた?おフジさんの突然の死であったがために、警察も出動したが、結果は急性心不全であった。

「私が介護します」「週1回は訪問します」と言っていた次男の嫁は、一度来ただけの淋しい終焉であった。この死も「独居死」なのであろうか?私は敢えて言わせてもらえば「無死(無視)」であろうと思わざるを得ない。

伊藤 克之

新年あけましておめでとうございます

読者の皆様におかれましては、良いお年をお迎えのこととお慶び申し上げます。

平成26年の「ういすたりあ」を一文字で振り返ると「災」という文字が当てはまると思っている。2月には二度の降雪があり、10月には台風18号による浸水被害が発生した。この後始末のために職員は何度も筋肉痛に苛まれる結果となった。ケアハウスの退去者も例年になく多数にのぼったが、職員の努力で年間を通して空室を作らずにすんでいる。また、職員の退職も数人はあったものの、募集をかけたことによって、それ以上の数の職員を確保することができた。一方、目を国内外に向けてみると、木曽御嶽山の噴火、広島市の土砂崩れ、全国的なゲリラ豪雨による被害、エボラ出血熱感染者の拡大、マレーシア航空機の惨事、韓国旅客船の沈没等々が挙げられ、「災」でなければ「禍」の文字が当てはまるような一年であったと思っている。DSC_0470

そのような中で青色LED発明による3科学者のノーベル賞受賞は明るい話題を提供してくれた。

今年、平成27年はどの様な年になるのであろうか?元旦に降雪があったように、地球温暖化による異常気象が原因で自然災害がまだまだ続くような気がしてならない。韓国、中国との関係からも推測されるように、外交面でも明るい兆しは見られないし、国内でのアベノミクスがたとえよい方向に向かっても、我々庶民がその恩恵を享受するのは大分先のような気がしてならない。そして、今年は統一地方選挙の年でもある。ますます我々は「一票」を大事に行使しなければならない。

消費税10%への引き上げが見送られたために、社会保障費の財源が大分削られそうである。高齢者福祉においても、特別養護老人ホームや通所介護の介護報酬は削減との噂がまことしやかに流布している。介護職員の処遇改善は若干良い方向に見直されるであろうが、それにしても一般企業労働者の所得格差の1割程度の補填にしかならない。2025年にはいわゆる団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になってしまう。この現象より恐ろしいのは、認知症高齢者の出現スピードである。

いまでも高齢者介護の人手不足は叫ばれているが、この数はさらに増え、100万人になるとも言われている。

企業経営に大切なものは「ヒト」「モノ」「カネ」と言われている。資金があってハコモノ(施設)を作ってみたところで、そこで働く「ヒト」がいなければ、このプランは「絵に描いた餅」であり、この三要素を無視して起業すれば、介護業界の質は低下するばかりである。数年のうちには高齢者福祉の世界にも「自然淘汰」による「サバイバル」の時代が到来することは必至であると考えている。

こんなことを考えている私は、今年の目標として「堅実・安定」を掲げることにした。DSC_0461

伊藤 克之