お休み処「わびすけ」

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宿場町平塚・大磯

「湘南ひらつか七夕まつり」は梅雨時に開催されるため、DSC_0574いつも雨にたたられる。梅雨の合間に拙宅の二階に上がり西方を見ると、雨に洗われた富士山と丹沢山塊が望める。左側に目を移すと、標高168mの丸い形をした高麗山が見える。この高麗山の後ろ側には、相模湾、江の島、三浦半島、時には房総半島まで望める「湘南平」がある。

私の小学校時代の遠足は、徒歩で学校(今の大野小学校)を出て高麗山から尾根伝いに湘南平までを踏破する強行軍であった。どれほどの距離を歩いたのであろうか、水筒を肩から掛け、お弁当を入れたリュックサックを背負って、ひたすら歩き続ける、まさに遠足であった。

中学(浜岳中学)の社会科の授業で、「あの高麗山はペテン山ともいう。歌川広重の「東海道五十三次」平塚宿の絵でよく解るように、yjimageB4FR6QQZ高麗山は平塚宿から見ると旅人の目には街道の真正面に山があるように見える。平塚宿の宿屋の客引きは、何も知らない旅人に『この先あの山を越えなければならない。あの山は暗くなると山賊が出る。今晩はここに泊まった方が良い』と嘘を言って旅人を呼び込んでいた。だからペテン山と呼んだのだ」と教えてもらったことがある。

また、高麗山の麓に「化粧坂(けわいざか)」という地名がある。鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。この地名は、当時の大磯の代表的な女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なここにある井戸の水を汲んで化粧をしたので、やがてこの井戸は「化粧井戸」と呼ばれるようになった。この井戸の名に因んでこの緩い登り坂に「化粧坂」という名がついたといわれている。

私が社会科の先生から聞いた話では、「平塚宿に大名行列が宿をとった時に平塚宿の芸者衆だけでは手が足りず、大磯宿の芸者衆の手も借りたという。東海道五十三次の七番目の宿場町・平塚宿と八番目の宿場町大磯宿との距離は一里を切っているとはいえ、大磯宿から平塚宿まで急いで駆けつけると、芸者衆の化粧が落ちてしまう。その化粧を道中直したところが「化粧坂」であると聞いた。真偽は定かではない。

因みに、虎御前は「曽我物語」の主人公、曽我十郎祐成(すけなり)の愛妄として知られている山下長者(平塚市山下)の娘(遊女)で、詩歌、管弦に通じ、大層な美人であったという。

社会科の授業の話に戻そう。先生は、「東海道に面した大磯の民家には縁側がないのが特徴である」と諭された。これは江戸・日本橋を出発した旅人が、旅の疲れを癒すために無断で腰を下ろして休憩されるのを防ぐためだという。私は経験がないが、四国霊場八十八ヶ所を巡るお遍路さんにお茶やお菓子で「おもてなし」をするという四国の人たちとの違いは、歴史や風土の違いから来ているのであろうか。

大磯は、明治18年初代陸軍軍医総監であった松本順が、日本で初めて海水浴場を開設し、「日本海水浴場発祥の地」として知られているが、その後多くの著名人が別荘を好んで建てた地でもある。yjimage0KFUPGZ1忘れてならないのは「湘南発祥の地」でもあるということである。中国湖南省にある洞庭湖の畔、湘江の南側を湘南というが、その地に大磯が似ているとこから湘南と呼ばれるようになったと書かれた碑も存在する。

朝鮮・高句麗からの渡来人が居住し、集落を作ったことから「高麗山」の名がついたといわれている平塚宿のすぐお隣の大磯・高麗地域。この地から金氏が花水川を遡って開いたのが金田や金目であり、秦氏が開拓したのが秦野盆地であるとも言われている。

伊藤 克之