お休み処「わびすけ」

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七 五 三

yjimage2IA17NLU 11月と言えば? 1000人に聞いたそうである。1位・七五三、2位・文化祭、3位にボジョレーヌーヴォーがきて、4位に紅葉と続くのだそうである。

物の始まりが一ならば、島の始まりが淡路島、泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打の始まりは熊坂の長範、兄(二)さん寄ってらっしゃいは吉原のカブ、産(三)で死んだが三島のおせん、四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水・・・。有名な寅さんの啖呵売の口上であるが、1,2,3,4と続く数字の中でも、日本人には奇数の数字が好まれているように思える。これは中国思想の流れを汲む「陽数(奇数)は縁起の良い数字」という考え方から来ているのかもしれない。

また、日本では奇数は割り切れないので縁起のいい数字だと珍重されている。奇数になぞらえた言葉には、日本三景(松島、天の橋立、安芸の宮島)があれば、三大庭園(金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園)もあり、三大がっかり(札幌の時計台、高知のはりやま橋、沖縄の守礼の門、(長崎のオランダ坂という説もある))も存在する。かつては王選手の1、長嶋選手の3という背番号の奇数字も巷に氾濫した。銭湯の下足札も1や3はいつも最初になくなっていた。野球のルールに用いられる数字も奇数が多い。1チーム9人、1試合9イニング、3ストライクで1アウト、3アウトでチェンジ等である。

春や秋の七草が季節感を醸し出せば、恵比須、布袋、福禄寿、寿老人、大黒天、毘沙門天、弁財天と言った七福神も尊ばれている。ラッキーセブン、世界七不思議と言った言葉も耳慣れた単語となっている。故人を供養する法要も初七日、四十九日、一周忌・・・となっている。

話を七五三の起源に戻そう。昔の村落には、生まれた子どもはすぐには村の構成員として認められず、ある年齢になって初めて、村落共同体の一員として認められるようになるという掟(おきて)や取り決めがありました。その年齢が女児は三歳、男児は五歳でした。また、七歳は幼児から少年少女への折り目だと考えられていました。そして人別帳や氏子の登録も三歳を過ぎ七歳ぐらいまでの間に行われました。(筆者註:当時は乳幼児死亡率が高かったことが大きな原因と考えられる)これでやっと村の子ども組に参加できるようになり、村の中での権利と義務が生じてくるようになったのです。

武家社会になると五歳になった男児は、「袴着(はかまぎ)」、七歳になった女児は「帯解き(おびとき)」の祝いをする習慣も生まれた。また、鎌倉時代以降になると、公家では二歳、武家では三歳に「髪置き(かみおき)」の祝いを行いました。これは赤ちゃん時代から行っていた髪を剃って短いままだった子どもの髪を伸ばし始める儀式です。

そしてこれを武家では十一月十五日に行って、それは室町から江戸時代まで行われていますが、この習慣が民間に広く伝わったようです。(雑学大百科・三公社刊)

また、七五三は三歳で言葉を授かり、五歳で智恵を授かり、七歳で歯を授かることを神に感謝する儀式とも言われている。yjimageS3G9VGNE何はともあれ、七五三は古くから日本に根付いた祝い事なのである。千歳飴を食べながら、我が子の健やかなる成長と長寿を祝ってあげようではありませんか。

伊藤 克之