平成26年の元兵庫県議・野々村氏の城崎温泉への日帰りカラ出張に端を発し、徳島、宮城、大阪と政務活動費に関する醜聞は枚挙に暇がない。新しいところでは、富山県議、市議のこれにまつわる辞職問題である。政活費(政務活動費)を生活費と勘違いしているのではなかろうか。
話は古くなるが、江戸時代末期、相模国片岡村(神奈川県平塚市片岡)の大沢小才太(名は精一)は、報徳仕法(二宮尊徳の教え)を用いて天保の飢饉で疲弊した片岡村の復興に尽力し、片岡村の借財変換、荒地開墾などを行い、自力更生の模範村とした。
同じ頃、片岡村近くの新土村(現在の平塚市真土)には松木長右衛門(1847-1878)という、当地の区長兼戸長職にあった人物がいた。松木長右衛門の祖先は甲州に居を構え、武田家隆盛の頃は勘定奉行として武田家の金銭収納の一切を取り仕切っていた。それが主家の滅亡を期に、多くの残党と共に新土村の周辺の地に移り住んだのである。相模川を通じて交通の便があったことが主な理由であるらしい。
松木家は「義民・佐倉惣五郎」を擁した堀田家に取り入り、下総、相模の筆頭名主として待遇された。それゆえ、新土の地は、若林直則の領地と幕府直轄地→本多信勝領地→堀田正亮(佐倉藩)の二つのルーツに分かれている。
元来学問があり利殖にもたけていた長右衛門は、荒地を開拓しては所有地とし、有り金を貸しては利殖をして資金を増やし、自己所有の田畑山林を10町歩(3000坪、9900㎡)以上も有し、さらに30町歩9000坪、297000㎡)は質地として保有していた。さらに長右衛門の宅地は一町二反(3600坪、11880㎡)にもおよび、その周囲には幅4尺程の堀をめぐらし、その内側には大きな母屋をはじめ、土蔵、物置、文書蔵など合わせて12棟の建物があった。
また、松木家では子女の教育は代々家庭でなされ、いずれもが立派な学者にしたてられていた。そんな松木家の13代目にあたる長右衛門は、背丈は普通であったが22貫(82.5kg)もあって色白でひげが濃く、男でも惚れ惚れする好男子であった。
長右衛門は、数え年18歳で父良輔の後を継いで名主職になった。彼は文明開化、洋化思想も積極的に取り入れ、この近辺では最初にチョンマゲを落とした先駆者でもあった。また、教育の必要性を痛感し学校の創設を主唱、資金の調達、設計、経営等の計画を立て、明治7年にはすでに独立した小学校の校舎を設けている。これが現在の大野小学校の前身である。
一方、八幡村と隣村萩園村の境界争いを治めたのも長右衛門であり、従来からあった真土村の小字名を廃止して「一の域」から「二十三の域」の小字名に改めたのも長右衛門ある。これは全国的に見ても珍しく、「○○之域」の呼称は現在でも電柱等の表示でよく見かける。そして、明治初年に「新土」を「真土」と改めたのも長右衛門であった。
そのような功績のある長右衛門であるが、明治6年(1873年)に明治政府が行った地租改正(地券発行・租税制度改正)の際に、かねてから借金の担保としてとっていた質地を自分名義に書き換えようとしたこと等で農民たちの反感を買ってしまった。開国による物価の高騰、地租改正による意外な重税にあえいで耐乏生活を強いられている農民たちを省みず、私利私欲に走った結果である。果たせるかな、農民たちの怒りは収まらず、明治11年(1878年)10月26日の深夜から27日の未明にかけて彼らは松木家を焼き討ちにした。そして長右衛門一家7名は全員惨殺されたのである。これが巷間言われる真土騒動(松木騒動)である。今を去ること138年前の、まさに10月の出来事であった。(参考文献・昭和33年刊大野誌他)
伊藤 克之