近隣の桜の先頭を切って咲き誇っていた「ういすたりあ」の河津桜も、近くの渋田川両岸に植えられた500本のを超えるソメイヨシノにその席を譲った。平塚「花菜ガーデン」では、近年経験したことない大雪に耐えてきた桃、菜の花、カーネーション、水仙、チューリップ等が、心待ちしていたかのように競って咲き始めた。
しかし、南北に長い日本の「北国の春」はまだ遠い。
白樺 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春
コブシ(辛夷)は、早春に他の木に先駆けて白い花を咲かせる、別名「田打ち桜」とも言うのだそうである。当地平塚での田打ちは5・6月ごろ行われるので、コブシの花の咲く時期と一致はしないが、春の遅い北国では、コブシの花の開花も、もっと遅いのであろう。
「北国の春」の歌詞はさらに続き、
季節が都会ではわからないだろうと 届いたおふくろの小さな包み
と唄っている。故郷にいるお母さんからの便りも、手紙から電話に替り、今日ではメールでのやり取りに替わっている。
ういすたりあの近くにあるマンモス団地は、独居老人、高齢者夫婦の入居率が高く、したがって、高齢化率が著しく高い。団地に住むある独居のお年寄りは、おふくろからの小包ならぬ息子からの宅急便を心待ちにしている。その中身は、衣類であったり、野菜であったり、レトルト食品であったりする。荷物の中には、息子の近況を知らせる手紙でも入っているのであろうか。独居生活をしているおばあちゃんは、「長男はこれを送ってくれた」「二男からはこれが届いた」と、毎日大喜びで自慢をしている。私には、この自慢話が老婆の独り身の寂しさを物語っているように思えてならない。
「便りのないのは、いい便り」と言ったのは昔のことである。高齢化日本にとっては、「孤独死」に象徴される家族の安否確認を日々怠ってはならない。願わくは、遠隔地にいるお子さんたちもお母さんのもとを訪れて、一緒にこの桜を楽しんでもらいたいものである。古典落語の「長屋の花見」ではないが、花見弁当の卵焼きが沢庵に、蒲鉾の代用が大根に、お茶を代用に使ったお酒が「オチャケ」になってもいいじゃありませんか。きっと湯呑の中に酒柱が立って、何か良いことがあるでしょう。
伊藤 克之