私の父は典型的な会社人間であった。朝六時前には家を出て、四キロ先にある駅まで自転車で向かい、私たち兄弟や母、さらには同居する自分の父や祖母までを養うために、目いっぱいの残業をこなし、夜は私が寝ついてから帰宅するような生活であった。そんな父が「肩たたき」にあい、長年勤めた会社を辞めた。
時代が昭和から平成に代る頃だったと記憶している。玄関先に植えてあった植栽・柊の剪定に没頭し始めた。伸びた幹を切り、小枝を刈り上げる作業を生業のようにいていた。しかし、翌年になると柊の高さは半分程になっていた。そして、翌々年柊根だけを残して伐採されていた。果たせるかな、あくる年にはスコップと鋸を駆使して柊の根の掘り起こしに没頭している父の姿があった。徐々に徘徊が始まったのもこの頃からであった。ある時は徒歩で、ある時は自転車で、結構遠くまで遠征していた。親切な人には送られて、時にはパトカーで送られて帰ってきた。電話で父の存在を知らせてきてくれた人たちに対しては、即座に受け取りに行き、平身低頭でお礼を述べて引き取った。家に囲い込むと、家の中でも昼夜逆転、徘徊始まり、トイレと冷蔵庫とを間違え、冷蔵庫を開けてその中に小便をする始末であった。晩年の父には苦労をさせられた思い、大きな声で叱った思い出しか残っていない。今のように「介護保険制度」が確立されていない時期に、母や家内は私以上に苦労をさせられていたのであろう。
「ういすたりあ」は特定施設ケアハウスである。一言で言うと「介護保険制度を必要としない、自立した高齢者が元気なうちから入所できる特別養護老人ホーム」である。現在、介護保険制度を利用して入所されていらっしゃる方の中には認知症状の相当進んだ方もおられる。徘徊、介護への抵抗、昼夜を問わず、ひっきりなしのナースコール、ヘルパーへの罵詈雑言等々。このような環境に耐え、献身的に介護する職員に私は、昔の至らなかった自分を恥じ、職員にただただ心の中で手を合わせ、頭を下げるのみである。
今年のGWに「ばあちゃん、介護施設を間違えたらもっとボケるで!」(長尾和宏・丸尾多重子著、ブックマン社刊)を完読した。そしてかつての自分を恥じた。この本の中には「介護」ではなく「快護」をしよう、認知症は「忘れる」のでなく、「新しいことを覚えられないのだ」(近藤誠氏談),ケアマネに求められるもの、介護施設の見学ポイント、認知症薬の現状等が記載されていて、介護の現場で活躍している人の忌憚のない意見・感想に触れることができて感激をした。中でも「介護にたった一つの正解はない」『人間はボケていくとすごく素直になっていくんです。嘘や虚勢や人を騙すことをしなくなる。心が裸になって、人間の本質を見せてくれる。だから「介護とは何か?」を考えることは、実は「人間とは何か?」を考えることでもあるんです。「学び喜ぶ」もあれば「その人の本質に出会える喜び」もある』というフレーズには、強く心を打たれた。認知症と言われる方々への認識を新たにした次第である。
お陰さまで晩年の父に対する私の見方も変わってくれそうである。有り難い一冊であった。 伊藤 克之